リバタリアンな功利主義者が、ロールズの格差原理に賛成できない理由

マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』を読んで、功利主義とリバタリアンの主張は素直に受け入れられた。アリストテレスもまだ理解できる。カントはやや厳しいが、言いたいことはわかる。

その中で、ジョン・ロールズの思想だけは根本的に間違っているようにしか思えない。功利主義の否定として意味はあると思うのだが、サンデルもロールズを批判して自説を展開している。

なぜカントに違和感を覚え、ロールズの「格差原理」というアイデアが受け入れがたいのか、その理由を考えてみたい。

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カントに共感できない理由

「正義」本でリバタリアニズムに続いて紹介されるのはドイツの哲学者カント。その道徳哲学は功利主義への批判として、特定の状況や利害関係によらない抽象的な正義感を擁立しようとしている。傾向性でない義務、他律でない自律、仮言命法ではなく定言命法…

正直、カントの本は難しい。それはマイケル・サンデルも認めている。用語の使い方が独特なので、ハイデガーやサルトルのようにとっつきにくい本だ。「正義」本の解説でようやく理解の糸口はつかめたが、カントを知れば知るほど違和感が募って来る。

「汝の意志の格律が、つねに同時に普遍的法則となるように行為せよ」という定言命法の方式には、妙に宗教的な臭いがする。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という聖書の文言にそっくりだ。

結局カントは人類にとって普遍的な正義を目指したが、「18世紀ドイツのプロテスタント」という帰属する共同体の価値観に捕らわれていたと考えられる。理性を最重視する姿勢は欧米人にとっては自然なのかもしれないが、日本人の感覚からすると大いに違和感を覚える。

クリントン元大統領の不倫騒動を例に挙げて、「嘘は許されないが、誤解を招く表現なら許容できる」という議論は屁理屈にしか聞こえない。日本人にとっては情けとか人情とか、カントの英知界に対比される感性界の方に重きを置かれるだろう。

われわれは道徳と自由の存在を証明することはできないが、それらが存在するという前提なしに、道徳的な生活を理解することもまたできない。

マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう』

サンデルがカントに注目する理由は、功利主義のいう「効用」以外に「我々が暗黙のうちに認める価値基準が存在する」という事実だと思う。その正体は普遍的な「純粋実践理性」などではなく、時代と環境によって異なる「コミュニティーの物語」だいう主張に結び付けたいのだろう。

契約の公平性

サンデルが紹介するモデルケースのいくつかは、アメリカ特有の事情を反映しているように思う。ほとんど単一民族の日本と違って人種が多様だから、物事を決めるのに公平性や中立性というのが重視されるのだろう。かつて憲法で奴隷制を認めていた国の反省ともいえる。

カントはまだましだが、続いて紹介されるジョン・ロールズの思想になると、もはや理解不能に近い。そこには功利主義の保守派に対立する、リベラルな平等主義が根底にある。個人的に生理的な嫌悪感すら覚えるのは、ロールズの発想にどこか公務員的、共産主義的な臭いがするからだと思う。

まず「契約の公平性」という議論がある。契約を結ぶ当事者の力関係、知識の有無によって、完全に公平な契約というのは実現できない。高齢者に対して不当に高い配管修理費を請求するように、有利な方が弱者を搾取する恐れがある。

しかし、だからといって「不当な契約は無効」と言ってしまうと、それによって引き起こされるモラルハザードの方が深刻ではなかろうか。ルールを悪用して、「弱者だから」という理由で契約を踏み倒す連中が出てくるだろう。

日本では「契約の自由」を認めつつも、民法90条で「公序良俗に反する法律行為(契約)は無効」と定められている。歴史的には人身売買や、投資取引の損失補填が「公序良俗に反する」という理由で無効とされた判例がある。要は「公序良俗」という概念に、時代と状況によって変わる柔軟性を取り入れているといえる。

結局のところ契約については、「原則自由だけど、皆が行き過ぎと認める行為はNG」という運用ルールしかないように思う。完全に平等な「原初状態」は現実的にあり得ないので、程度問題で判断するしかない。

もし水道工事の契約で詐欺にあった老婦人の事例で、請求額が5万ドルでなく500ドルだったらどうなるだろう。「相場よりちょっと高いかも」くらいの金額だったら、逆に女性の方が被害者を装って修理費を踏み倒そうという構図に見えてくる。こういう例からしても、情状酌量の余地がない「中立的な正義」は存在しえないということが、直感的にわかる。

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格差原理という毒薬

さて本書で最も物議をかもしそうなのは、ジョン・ロールズが提案する「格差原理」だろう。個人的には「格差」という言葉を聞いただけで、腐敗の臭いがして虫唾が走る。

ロビン・フッドや鼠小僧のような義賊は、国家が公式には認めてはいけない類の「正義」だと思う。悪代官が不当に得た利益を巻き上げて、貧民に分け与えるというのは美談だ。しかし現実に自分が山賊の被害に遭ったら、不公正としか思わないだろう。

「マイケル・ジョーダンやイチローの高給を徴収して貧民に再分配する」という話は、政治哲学の議論によく出てくる。全体の福祉を向上させるので、功利主義的にはありかもしれない。しかし生活保障やベーシックインカムと同様に、それが引き起こす道徳的腐敗のリスクの方が恐ろしいと思う。

ジョン・ロールズの提案する格差原理は、「社会で最も不遇な人びとの利益に資するような社会的・経済的不平等だけを許容する」と定義されている。各自の属性を棚上げした「無知のベール」をかぶった平等の原初状態では、この原理が選ばれるという。

自分が格差社会のどのポジションにいるかわからないなら、生活保護や貧困層向けの救済策を支持するだろうという考え方だ。そもそもこの発想がうさんくさい。格差の中には遺伝や階級というランダムな要素もあるが、自助努力で何とかできる部分もある。後者の可能性を意図的に諦めているように思う。

また、格差といって実際はもっと幅広い。アメリカ人の底辺層は、それより困窮しているインドの貧民を支援する義務はないのだろうか。サンデルもアメリカとメキシコの経済格差・移民問題を例に挙げて、他国の貧困層を支援する道徳的理由を検討している。自発的な格差の克服を放棄して、法制度による格差の是正から考えようとする根性が、そもそもひねくれていると思う。

努力すら運?

もっともロールズに言わせると、そういう努力や勤勉さという性格自体が育った家庭環境によって醸成されるので、不公平ということになる。会社員の報酬が単なる「努力」でなく「貢献度」で測られるというのは納得がいく。しかし、だからといって「道徳的功績」から切り離された分配の正義というのは、どうにもイメージできない。

日本人の自分ですら違和感を覚えるのだから、ベンジャミン・フランクリンのような勤勉性を建国の父たちから受け継いでいるアメリカ人には、摩訶不思議な理屈に思われたことだろう。ジョン・ロールズの主張は単純にいうと、実力主義とアメリカンドリームの否定に思われる。

努力して身に付けたスキルも苦労して稼いだお金も、すべて「恵まれた家庭」や「社会に偶然必要とされた」という運の話になる。「宝くじが当たったように恣意的に得られた報酬なのだから社会に再分配されて当然」という理屈だ。

百歩譲って一理あるかもしれないが、それを認めると誰も努力しない世の中になってしまう。それよりは底辺の暮らしに甘んじて、社会保障をねだる方が楽な生き方ということになってしまう。

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平等主義よりまだましな正義

劇薬にしか思われないロールズの『正義論』が読まれている状況からすると、自分の理解が浅はかな面もあると思う。しかし、マイケル・サンデルの本で紹介される格差原理の率直な感想は「気味が悪い」という印象だ。

ロールズの平等主義に一票入れるくらいなら、まだ極端なリバタリアニズムを選んだ方がましに思われる。少なくとも自分にはその方が「公正」に感じる。

各自の才能も育った家庭環境も、功利主義の共通通貨のように厳密に比較できない以上、そうした個別事情は抜きにしてルールを決めた方がいい。そうでなければ「必要だから」という理由で社会保障や補助金をねだる、寄生虫みたいなたかり屋ばかりになってしまう。

一方で、格差原理には基本的に反対だが、自分が社会の底辺にいると自覚する場合は話が別だ。富裕層にはどんどん課税して、貧困層にキャッシュをばらまいて欲しい。こういう低劣な発想は、そもそもノーラン・チャートにも載らないオポチュニズムに過ぎないのだろう。

ポピュリズムと同様に侮蔑的なニュアンスしかないが、自分の政治的ポリシーを正しく表現すれば無責任な日和見主義だと思う。

人がリバタリアンになる理由

リバタリアンも行き過ぎると自殺幇助や「合意による食人」を認めることになる。サンデルが挙げる極端な事例は、論理的には問題ないと感じつつも国家が認めるのは不安を覚えるケースだ。

おそらく、政府の介入や平等主義に反対するあまり、主張が極端になってしまったというアメリカ特有の事情があるのだろう。「人はなぜリバタリアンになるのか」を理解するには、その対立概念と成立した背景を知らないと難しいと思う。

アメリカ人にとっての「リベラルと保守の違い」は、他国の人が考えるより重みが違う。例えば映画『男たちの大和』で「武士道と士道の違いは何か?」と問われているようなものだろう。同じ日本人からしても容易に理解できないが、外国人からしたらちんぷんかんぷんだろう。

正直なところ、自分も功利主義やリバタリアニズムが究極の正義とは考えていない。ただ、その逆の思想である平等主義や全体主義が世にはばかるよりは「まだまし」と思うだけだ。「正義」の本を読んで前者の思想に共感を覚えたのは、ジョン・ロールズに代表されるリベラルな平等主義が気持ち悪いと感じるからだろう。

起業家で投資家のピーター・ティールは、保守の女神アイン・ランドをこう評している。

偏屈な創業者が必要だと言っても、誰の力も借りないで「世界を動かす」と豪語するようなアイン・ランド的創造者を崇拝すべきだという意味ではない。偉大な作家であるランドも、この点では間違っている。彼女が描く悪者は本物だが、英雄はニセ者だ。『別天地』など存在しない。誰も社会から完全に離れることなどできないのだ。

ピーター・ティール 『ZERO to ONE』

シリコンバレーの起業家や投資家は、かなりの高確率でリバタリアンだと思う。アメリカで起業することは、リスクを取る以上の大義があるのだろう。優生思想的なユートピアは信じられないが、一切の競争や自由が排除されたディストピアの方は明確にイメージできる。

『肩をすくめるアトラス』を読めば、労働生産性の低い公務員や政治家が牛耳る全体主義のがいかに悲惨か想像できる。ジョン・ロールズの平等主義について知ることも同じ効果がある。生まれながらのリバタリアンも平等主義者もいない。社会の理不尽さを実感して、格差を肯定するか否定するかで立場が分かれていくのだろう。